安住の地は作らない

百田尚樹さんの「影法師」を読んだ。

先日 見城徹さんの 「読書という荒野」を読んで、その中で紹介されていた本の一つだ。
私は自己啓発、実用系の本の方が好きで、小説を読むことがあまりなかった。

見城さんの本を読んで、読書を通じて生きられなかった人の人生を生きて、普通に生活する中では感じられない感情を感じ、深い思考を持つ人になりたいと思ったので読むことにした。

この物語は、「君の名は」のように、時間軸が何度も入れ替わるものであった。

主人公の勘一は、過去の出来事の繋がりが後になって分かり、深い後悔の念を抱く。竹馬の友が己のためにそこまで人生を捧げる必要があったのか、それに比べ己はこのまま生きていて良いのか、そのように自分を責めた。

1つの仕合いで運命が変わった勘一の竹馬の友、彦四郎、その全ては勘一のための行いであり、最後に全てを知った勘一の言葉、「彦四郎こそが、生きなければいけない男だった」を読んだ時は、涙がこぼれた。


勘一や彦四郎の生き方を目の当たりにして、人生への向き合い方、生き方を問い直された。武士の暮らしと今の暮らしを同じように比較することはできないが、感じることがあった。

戦いの時は、死んでもいい覚悟を持ち、自分が死ぬことのある位置に立たないと人を殺せないということ、自分は死んでもいいが、自分が死ぬと家族も共に殺される、それでも死のうと思って人を殺しに行かないと人は殺せない。それが戦い。

死を覚悟すると、今生きているのは天に生かされていると感じ、死ぬことは怖くなくなり冷静になれる。

勘一自らも自分の命を懸けて、竹馬の友 彦四郎も自らの人生を捧げて成功させた新田開発。
時代が違うけれど、自分はそんな生き方ができてるのかと自問した。私は人のために自分の人生を奈落の底に落とすことはできるのか。
辛いことなんて、昔の人に比べたら辛くもなんともない、かすり傷でもない。


明日から私は死ぬ覚悟で生きるのかというと、今の私が簡単に死ぬ覚悟で生きますと述べることは、戦の時代を生きた人々に対して失礼だと思う。
死ぬ覚悟で生きた時代、生きた人がいるということを感じることが、自分の明日に繋がるのではないかと思った。

これが見城さんの言っていた"人の人生を生きる"ということか。

世の中はすべてが綺麗事で済まされないことも記されていた。
例えば検地。
賄賂をもらい、検地帳には実際の新田より少なく記す。お互いが賄賂を受け取ることで了承の旨の意思表示をし、相手方も安心する。
これは賄賂を断ることよりも、相手の為になること。
そうやって人は生きて行くんだと思った。


慣れたらそれで終わりだと聞く。
仕事に慣れたかをよく聞かれるが、私は「生活には慣れましたが、仕事は慣れることは無いです、慣れたら危機感を持ちます、常に不安定な場所にいたいですし、そういう場所に身を置くようにしています」と答えている。

ルーティーンワークは無い。根本的には同じことの繰り返しだったとしても、毎回起こる事象は異なるし、対処も変えていかないといけない。同じことを同じようにこなすならば、私はその仕事をする必要が無い。
変化しなければ終わり、常に変化し続けたいと思っている。

ここで言う"不安定な場所"というのが、"自分も死ぬ可能性のある位置に身を置くこと"では無いだろうか。


次は誰の人生を生きようか。


何事にも感謝の気持ちを。
いつもありがとう、という気持ちを込めて職場の人のためにパウンドケーキを作った。

花火の時期🎆
夏っぽいこと、どんどんしたいです。

エリー

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